[スペックマニア] 25回

日本のスポーツ車 1960〜1990

第1回  プリンス スカイラインスポーツ
クーペ/コンバーチブル(BLRA-3型)1962年







ミケロッティの日本第1作。ドリームカーの誕生

 スカイライン・スポーツは、日本車として最初にイタリアン・デザインを取り入れた車として歴史に名をとどめている。
同時にそれは、日本車としてはじめての本格的スポーツカーを志向した車としても大きな意味をもっている。
たしかに59年6月には、FRPボディをつけたダットサン・スポーツS211がデピューしてはいるが、性能的にはさほど見るベきものはなかったし、その発展型であるフェアレディ1500の登場は、62年10月のことだったからである。
 1960年11月の第42回トリノ・ショーでプリンス・グロリアのシャシに、一匹狼のデザイナー、ジョヴァンニ・ミケロッティがボディを架装した2ドア・クーペとコンバーチブルが出品されて注目を集めた。
デユアル・ヘッドライトを45度傾けた、異色のフロント・デザインを示した作品で、これは61年の東京モーター・ショーにも展示された後、62年4月から市販に移された。
 第2次大戦後の世界の自動車界の大きな特徴の一つとして、イタリアのカロッツエリア/デザイナーが自動車スタイリングについて主導的役割を強めたことがあげられる。
ピニンファリナ、ベルトーネ、そして後にはジウシアーロがその任に当るわけだが、ミケロツティも独特の造形感覚により多くの名作を残している。
中でもトライアンフ社での業績は、量産車のトライアンフ・ヘラルドをはじめとして数多いが、スカイライン・スポーツも彼の重要な作品の一つといってよい。
 戦前の日本の乗用車に、今日的な意味での”デザイン”があったかどうか甚だ疑わしいが、戦後になっても少くとも1955年のトヨペット・クラウン、ダットサン110のデピューまでは、デザイン不在の状態が長く続いた。
そして日本車のデザインに新風をそそぎ込んだのが、あくまでもヨーロッパ的なバランス感覚を重んじたダットサン・ブルーバード310(59年)であることは衆目の一致するところだが、50年代のプリンスのデザイン・ポリシーはそれとはやや異なり、アメリカ車内な派手好みな傾向が目立っている。
 初代スカイライン、グロリアにしても、ツートーンカラー、テールフィンなどアメリカの流行に忠実たったが、その姿勢はスカイライン・スポーツにも反映している。
ヨーロッパのスポーツカーといえば、2座もしくは2プラス2と相場が決まっていたのだが、クーペは5座、コンバーチブルは4座となっている。もっとも、ベースがグロリアだったのだから当然だろう。
エンジンはグロリアのGB4型で、直4、OHV、1862ccだが、吸排気系の改良により出力は94PSに増大している。
ホイールベースは2535mm、全長×全幅×全高は4650×1695×1410mnm(クーペは1385mm)で、重量は1365kg、馬力(SAE)当たり重量は13.6kg/PSである。
 前輪はウィッシュボーン/コイル独立懸架、後輪はドディオン・アクスルが採用され、ロードホールディングにすぐれ、最高遠も当時の日本最高の150km/hとなっていた。
 第1回日本グランプリ(63年5月)には、スカイライン・スポーツも2台参加し、フェアレディ、MGB、トライアンフTR3/4ただりとせり合ったが、後に日本を代表する名ドライバー、生沢徹のドライブでも10位に止った。(フェアレディ優勝)
 今から考えるとスカイライン・スポーツの性格はやや中途半端だった。スポーツカーとしての決定的なパンチもなく、ポピュラー・スポーツカーとしての大衆性も見られなかった。
何しろ値段はクーペで185万円、コンパーチブル195万円と、クラウンの2倍ブルーパードの約3倍と、まさに高嶺の花でしかなかった。
作られたのもわずか60数台だが、その後の日本の車づくり、本格的デザインの重要性を強く印象づけた点で、はかり知れぬ重要な役割を果した。しかし、不遇なパイオニアとして、2年後にひっそりと姿を消した。



個性にあふれるミケロッテイ・デザイン。当初はピニンファリーナに依頼する意向もあったという。60年11月の第42回トリノ・ショーでは地中海ブルーのクーべとパールブルーのコンパーチブルを出展。その美しさが話題を呼んだ。
翌61年3月、赤坂プリンスホテルで記者発表会を行い、10月の第8回東京モーターショーでは人気を独占した。イタリアンデザインによる国産第1号車である。
リアのオーバーハングをたっぷりとったプロポーション。日野のコンテッサクーぺ(いずれ紹介)と通じるミケロッティの造形ライン。
ナルディタイプのスポーツステアリングが装備されているが、タコメーターはなし。シフトレバーはフロアでなく、コラム4速でタクシー感覚。フロアシフト全盛になるのはこれから数年後のこと。
エンジンは直40HV‐GB4型1900ccだがスカイライン1900より3PS高い94PSを発揮これはグロリア用のパワーアップ版エンジンを積んでいたためである。ベースとなったシャシもグロリアのものとする見方が正しいようで本来はグロリアスポーツとなるわけだ。プリンス自動車工業史にもスカイラインスポーツはグロリアと明記されている。

主要諸元  プリンス・スカイラインスポーツ
バリエーション
当時としては大柄な車体サイズ。
コンバーチブルは4シーターでクーペより10万円高。62年の195万円は今なら800万円以上?NSXといい勝負くらいのネダンだが買える人はいなかった。
エンジン 
種類/型式
ボアxストローク
総排気量
圧縮比
最高出力
最大トルク
燃料供給装置
燃料タンク容量
トランスミッション
型式
変速比 1/2/3
      4/5/R
最終減速比
シャシ
ステアリング
サスペンション 前
          後
ブレーキ     前
          後
タイヤ
ディメンション&ウェイト
全長x全幅x全高
ホイールベース
トレッド   前/後
最低地上高
室内長x幅x高
車両重量
乗車定員

車両価格(当時)
コンバーチブル195.0万

直4OHV/CB4
84.0×84.0mm
1862cc
8.5
94PS/4800rpm
15.6kgm/3600rpm
キャブx1
40g

型式4MT
4.183/2.642/1.596
1.000/-----/5.503
最終減速比4.875

ウオーム&セクタローラー
Wウイッシュボーン/コイル
ドティオンアクスル
ドラム
ドラム
5.90-15 4PR

4650x1695x1385mm
2535mm
1338/1374mm
----mm
----
1365kg
5名
(コンバーチブルは4名)

クーペ185.0万

エピソード

1962年まで、プリンス自動車はグロリア/スカイラインを共用ボディとし、豪華仕様の方をグロリアとしていた。
別ボディとなり、S50系スカイラインと、S40系グロリアに分かれるのは63年から。このスカイラインスポーツはこの過度期に生まれたクルマ。
先どり性よりも、ムードメーカーとしては忘れてならない存在。写真は兄弟車スカイラインデラックス。

当時のインプレッション

「スポーツ」とはいっても、この車はあくまでラグジュアリーなクーペモデルだ。あまりに高額で僅かしか生産されなかったので、ドライブ体験者は極く少ないハズ。ハンドル位置が妙に高いのと、重苦しい運動性がよく印象に残っている。走るとフロントが上がる姿勢になるのもこの車の個性だった。内装はまんまイタリア感覚でまとまりが良く、プリンスがいかに大事に仕上げたかがわかる車ではあった。

時代背景

1962年東京の常住人口が1000万人を突破。世界初の1千万人都市となる。それにともない都市では住宅問題が深刻化。これは今でも変わらない。近年再ヒットした植木等のスーダラ節もこの年のリリース。「わかっちやいるけどやめられない」が流行語となる。また鈴鹿サーキットが完成したのも62年のこと。アメリカ大統領、ケネディはソ連がキューバにミサイル基地を建設しているとし、海上封鎖した。世に言うキューバ危機となる。

  

inserted by FC2 system