[スペックマニア] 36回

日本のスポーツ車 1960〜1990



第12回  トヨタ2000GT
(MF10型)1967年


最高速=205km/h 0→400m=15.4秒
(カタログ値)



デビュー以来34年。トヨ2を越える車は現れなかった。
 「トヨタ2000GTの血統を継ぐ3000GT」(スープラ)、「トヨタ2000GTの再来」「トヨタ2000GT以来の6気筒DOHCをしめすD6HC‐6のエンブ レム」(ソアラ)
 いずれもトヨタの高級GTのデピュー時のコピーの一節である。
流れるように美しいスタイリングと最高速220km/h、ぜロヨン加速15.9秒の高性能、そして当時としては最高級の豪華な内外装備を身につけた高性能スポーツカー、トヨタ2000GTの魅力は、それを知る人びとによって今でも熱っぱく語り継がれているが、当のメーカー自身のトヨタ2000GTに対する思い入れも前出のコピーからヒシヒシと伝わってくる。
事実、国産スポーツカーの歴史を語るとき、外すことのできない名車のひとつがトヨタ2000GTであることは誰しも認めるところである。
 トヨタが市街地や高速道路走行も可能な本格的な高性能スポーツカーの開発を決めたのは、1963年(昭和38年)5月の第1回日本GPの直後だったといわれる。
開発に着手したのは翌年の1964年(昭和39年)5月で、当時のトヨタは1966年(昭和41年)から1968年(昭和43年)にかけて、カローラ、センチュリー、スプリンター、コロナ・マークUというニューモデルの相次ぐ発売の計画を進めており、生産余力もなかったところから、エンジンのチューニングや試作・生産はヤマハ発動機に委託、トヨタ・ヤマハの共同開発の形をとった。
設計やエンジンほかの主要部品の供給はトヨタの担当である。
 試作1号車の完成は1965年(昭和40年)8月で、その年の10月の第12回東京モーターショーに美しい2シーター・ファストバックのトヨタ2000GTプロトタイプが姿を現わしている。
第12回ショーでの人気をさらったトヨタ2000GTはその後も入念な走行テストを繰り返し、66年5月の第3回日本GPではプロトタイプ・レーシングカーのプリンスR380に1位、2位は奪われたが、無給油で3位に入賞。6月の鈴鹿1000kmレースでは2台が出場して総合1位、2位を占めた。
さらに10月には谷田部の高速試験場で高速耐久スピード・トライアルに挑戦、昼夜ぶっ通しの78時間連続走行で3つの世界新記録と13のクラス別国際新記録を樹立、このクルマの高速耐久性を実証した。
 ショーでデピューから約1年半後、ファンをヤキモキさせたトヨタ2000GTの市販は1967年(昭和42年)5月から開始された。
ロングノーズ、ファストバックのボディスタイルはショーに展示されたままだったが、センターロックのワイヤーホイールは市販車でほマグネシウム・ホイールに改められていたほか、細部で多少の変更も行われていた。
 エンジンはクラウン用の新エンジン、M型2000をベースにヤマハがチューニング、DOHCとした3M型を搭載した。
3M型は6気筒、ソレックス3連キャブDOHC、1988ccで、最高出力は150PS/6000rpm、最大トルクは18.0kg‐m/5000rpmであった。
 足まわりはサスペンションが前後ともウィッシュボーン/コイルの4輪独立懸架で、ブレーキは4輪ディスクを採用した。
現在は珍しくない4輪ディスク・ブレーキだが、当時は国産車としては初めてであった。
国産初といえばリトラクタブル・ヘッドランプもトヨタ2000GTが先べんをつけた装備である。
 ローズウッドの1枚板のダッシュボードやレザー張りバケットシートなど、内装の豪華さも当時のトップレベルで「すべて純国産」もご自慢のひとつであった。
しかし「ハイグレートな車づくり」による高価格も響いて、1970年(昭和45年)8月の生産打ち切りまで3年3カ月の生茎累計はわずか337台。クルマはすべてパーツの一つ一つを銭単位(円単位ではなく)でコスト計算して生産されるが、2000GTほどコストを無視して作られた例はない。
トヨタの技術を世に知らしめる目的があればこそ、歴史に名を残せたのだ。




トヨ2(トヨタ2000GTをこう呼ぶ)はリアスタイルも美しい。フェンダーミラー(当時の保安基準)というのがちょっと残念。美しいクルマはリアスタイルにもスキがない。

メーターパネルはホンモノの口一ズウッド。シフトレパーは短く、その右にあるのはステッキ型のサイドブレーキだ。

強いボディ剛性を得るためのバックボーンフレーム。リアのスプリングマウントは高い位置にある。エンジンを低く抑え込むためフレーム前方はY字型に開いている。
ヘッドライトはこんな風にピョコンと飛び出す。当時の安全基準を満たすにはこの高さが必要だった。

エンジン
エンジンはクラウン用M型(S0HC)をヤマハがチユーン。
DOHC・ソレックスキャプ3連によって最高出力は150PS/6000rpm。
エンジン断面図
SOHCのM型をDOHC化したもので、カムシャフト駆動用チェーンは2段掛けになっている。


主要諸元  トヨタ2000GT
 エンジン 
   種類/型式
   ボアxストローク
   総排気量
   圧縮比
   最高出力
   最大トルク
   燃料供給装置
   燃料タンク容量
 トランスミッション
   型式
   変速比 1/2/3
         4/5/R
   最終減速比
 シャシ
   ステアリング
   サスペンション    前
               後
   ブレーキ       前
               後
   タイヤ
 ディメンション&ウェイト
   全長x全幅x全高
   ホイールベース
   トレッド     前/後
   最低地上高
   室内長x幅x高
   車両重量
   乗車定員
 車両価格(当時)
    238.5万円

直6・DOHC/3M
75.0x75.0mm
1988cc
8.4
150PS/6000rpm
18.0kgm/5000rpm
ソレツクス×3
60リットル

5MT
3.143/1.636/1.179
1.000/0.844/3.238
4.375

R&P
Wウィッシュボーン/コイル
Wウイツシュボーン/コイル
ディスク
ディスク
165HR15

4175x1600x1160mm
2330mm
1300/1300mm
155mm
720x1430x950mm
1120kg
2名

エピソード

世界中の映画館を走り回ったトヨ2
当時は映画007が大ヒット。ジェームス・ポンドが近代兵器(小火器類)を使って悪の巣を破壊する、なんてストーリーが多かったが、その中で一度、トヨタ2000GTのオープンが登上した。日本を舞台にした「007は二度死ぬ」の時だったが、この映画を通して、トヨタ2000GTは世界の映画館の中を走り回った。と〜ぜんフェンダーミラーなんてダサイ(私語)ものは取り外してあった。

スピードトライアル
1966年8〜10月、トヨタ2000GTは谷田部のテストコースにおいて、3つの世界新記録と13の(クラス別)国際新記録を樹立。「国際水準のGTカー」を強烈にアピールした。3つの世界新記録とは、平均206.02km/hでの72時間走行、1万5000km走行時の206.04km/h、1万マイル走行特の206.18km/hである。トヨタは延べ400人のスタッフを動員、細谷四方洋、福沢幸雄をはじめ、5名のドライバーにより、この偉業を成し遂げた。このシーンは最近のトヨタのCMで一瞬見られる。

当時のインプレッション
トヨタのブランドではあるが、この車の開発にはヤマハの協力があった。直6DOHCは宝石のように見えた。レイアウト、スタイリング、インテリアは純ブリティッシュセンス。操作系の重さまで英国車的だった。動作も重苦しいとこがあったが、コーナーで加速するとロータスそっくりの姿勢(テールを沈め内側前輪を引き上げる)を見せたのが印象に残る。とりまとめ方が抜群によく、今でも尊敬できる数少ない車のひとつだ。

カタログ
トヨ2には前期型と後期型(外観一部変更、AT/エアコン装備)があった。写真は後期型のカタログの一部。
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